コラム

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2026.10.30

SAKURA法律事務所コラム 第10回 性被害と独身偽装被害

弁護士

金山 直樹

東京地裁は、令和8年6月23日、独身であると2年間にわたって偽装し続けた加害男性に対して500万近くの慰謝料の支払いを命じた。この判決を受けて、私は朝日新聞の取材に応じた(『「独身偽装」加害に見合う慰謝料は 見えぬ基準、識者は高額化を提案』2026年7月25日)。その後の7月には、交際開始から1年3か月後に独身偽装であることを告げられた被害女性が慰謝料など300万円余りの支払いを求めた裁判において、名古屋地裁は121万円の賠償を命じている。

私は、職場における優越的地位を背景に性行為を迫られた事案、すなわち部下が上司の誘いを拒絶できずに性行為に応じてしまった事案を念頭に、長年にわたって研究と弁護活動を継続してきた。その活動の中で論文「性行為と同意──格差構造下における自由と強制──」(法学研究92巻9号1〜47頁、2019年)も執筆した。そこにおいて、私は職場の構造的格差がある場合において被害者が「同意」したときには、性行為の違法性を阻却する正当な同意とは評価し得ないと主張し、そのような同意を「強制同意」と名付けて、「真の同意」と区別することを提案した。現在、まさにその点を巡る事件が、最高裁において上告受理申立の手続中である。

今般、上記・東京地裁事件についてのコメントを用意する中で、「強制同意」との対比において、「独身偽装」による被害がどう違うのかを考えさせられた。

まず、「強制同意」においては、被害者は性行為の最中、体を重ねる加害者に対する嫌悪感から逃げることができない。だからこそ、〈身も心も〉傷つけられる苦痛を味わうことになる。しかし、そこでの被害は、性行為という特定・限定された関係を起点にして生じ、そこから被害者の全生活に包括的・無限定的に及ぶという構造を持っている。具体的には、性暴力が被害者のPTSD、人間不信、就労不能、生活崩壊など全生活に及ぼす影響を軽視することはできない。

これに対して、「独身偽装」においては、加害者は独身者であると偽り、結婚を前提とする男女交際をする。被害者は、強制同意の場合と異なり、性行為の場面において苦痛を感じないどころか、逆に〈身も心も〉満たされるのではないだろうか。当事者間には感情的な繋がりがあるため、性行為は愛の確かめ合いとして、幸福感さえ感じさせるかもしれない。被害者は、結婚を前提に生活の全般にわたって相手方と人格的・精神的に深く結び付き、人生を共に歩んでいくことを考える。その根底には愛というべきものがあるだろう。

独身偽装が罪深いのは、加害者が当該交際の基礎である当然の前提を偽装するからである。それによって、交際相手の愛を詐取するからである。愛を詐取する結果、独身偽装による損害は、性行為に特定・限定されることなく、包括的・無限定的に被害者の全人格、全生活のすべてに及ぶ。だから、独身偽装による被害は、強制同意による被害とは比較にならない程、重大かつ深刻なものになるのである。そのことを具体的に示すため、以下において、独身偽装によって、被害者の失ったもの(1)と、加害者が得たもの(2)を対比的に考察しよう。

1 被害者が〈失った〉もの

人が誰を愛し、誰と親密な関係を築き、また誰と人生を共にするのか。それは他人から決められるものではなく、自らの意思によって選択することができるものであり、人生における最も重要な決断の一つである。ところが、独身偽装の被害者は、後になって決断が根拠を欠いていたことを知る。その結果、被害者は、(1)自ら築いてきたつもりの「相手方との人生」を失うのみならず、(2)独身偽装がなければ送ったはずの「別の人生」をも失う。

(1) 相手方との人生

被害者は、〈独身の〉相手方を交際相手として受け入れる選択をする。相手方を結婚相手として、共に人生を歩むことを選び取って、交際する。それは、相手方との「現在」だけではなく、相手方と共に生きる「未来」も含むものである。たとえば、一緒に食卓を囲むこと、何気ない一日を共に過ごし、時に笑い合うこと、病気になったら付き添うこと、仕事等の悩みの相談に応じて支え合うこと、歳を重ねてからもなお一緒に過ごすことなどである。相手方との間に生まれる子供のことも考えるかもしれない。

そもそも、結婚とは、単に同じ家に住むことでも、法的身分を変えることでもない。被害者は、今日だけではなく、明日も、その先の年月も、相手方と共に生きていこうと思い、また相手方も同じ気持ちだと信じて、人生の喜びも苦しみも分かち合うつもりで、交際期間を過ごす。

その間、被害者は交際相手たる相手方のことを第一に考えて生きる。時間、生活、仕事、友人関係、服装や髪型、そして肉体も含めて〈すべて〉を相手方の希望に合わせようとする。このようにして、被害者の人生は相手方との関係の上に築かれる。被害者は、結婚を前提にする以上、相手方に対して自分の全人生・全生活の〈すべて〉を捧げる。文字通り、〈すべて〉である。これは、決して軽いことではない。

被害者は、相手方が独身だと信じて交際を続ける。後に、独身偽装の事実が発覚することになるが、強調すべきは、それは単に「嘘をつかれた」という一言では表現し尽くせない事態だということである。なぜなら、先に述べたように、独身偽装によって詐取されるのは、「愛」そのものだからである。愛とは、自由な意思のもとで相手を思いやり、尊重することである。

被害者が相手方に差し出すのは、単なる「交際の時間」と言って済まされるものなどではない。それは、自らの人格、愛情、身体、人生設計、精神的つながり、そして未来への希望である。相手方が誠実であると信じるからこそ差し出すのである。これは、相手方が既婚者だと知っていれば、決してありえなかった選択であり、人生である。

人が誰かを愛し、また愛されるという感情――それは人生における贅沢であり、一つの奇跡とさえ言うことができるであろう。けれども、独身偽装は、この人生で最も美しい感情を弄ぶ。言うまでもなく、相手方が既婚者であることを知った被害者が味わう苦痛は、単なる失恋とは全く異なる。被害者が失うのは、愛した相手だけではなく、相手方を信じて選択した「人生」だからである。刑法上の詐欺と比較するならば、詐欺罪が保護法益とするのは、被害者の財産にすぎない。それに対して、独身偽装は、被害者の精神を弄んでその自律的判断を歪めて、愛そのものを詐取し、被害者の人格的自律と人生〈すべて〉に深く介入する。だからこそ、取り返しのつかない被害をもたらす。その意味で、婚姻偽装は、財産的法益の侵害にとどまる刑法上の詐欺類型と比しても、人格的法益への介入という観点において極めて罪深い行為だということができる

交際中、相手方が口にする「結婚」は、最初から実現することのできない空虚な言葉にすぎない。けれども、被害者は、その言葉を信じて、「将来」を信じて、交際を継続する。被害者が相手方と共に紡いできた物語は、実のところ、相手方によって誘い込まれた幻想の世界の中にしか存在しない。その意味で、独身偽装は、単なる男女間の裏切りなどではない。一人の人間として真剣に生きてきた人間の人生が何の落ち度もないのに盗まれるからである。被害者は、自分が長期間騙されていたと分かって、自責の念や他者への信頼形成能力そのものにも、深い傷を負う。

独身偽装は、人の自由意思を弄ぶことにその残酷さの本質がある。そもそも、恋に落ちることも、共に生きるという人生を選び取ることも、本当は本人の自由な意思に委ねられるべき、最も個人的で、最も尊厳に満ちた行為のはずである。けれども、独身偽装は、その自由意思そのものを弄ぶ。被害者は、相手方によって操られた〈自由意思〉に基づいて、相手方と交際し、自らの人生を懸けて相手方を愛し、結婚を目標に全生活を捧げる。ところが、その〈すべて〉が、相手方の人生の単なる「片手間」ないし「余技・添えもの」として、消費される。被害者が相手方と共に歩む人生は、そもそもどこにも存在しないのである。

(2) 別の人生

被害者は、相手方と出会わなければ、「別の人生」を歩んでいたはずである。独身偽装の被害者は、多くの場合、明確に結婚と出産を意識し、結婚を前提としない交際は頑なに拒否する。被害者は、もし相手方と交際していなければ、「別の人生」を歩むことができたはずである。他の人と交際して、結婚し、子供を産んでいたかもしれない。ところが、相手方の独身偽装によって、被害者は、別の交際相手・別の結婚相手を探す機会を失う。相手方とは「将来一緒になる」という前提があるため、そのことが被害者のキャリア、住居、資産形成などに大きな影響を及ぼす。

要するに、被害者は、結婚に向けて相手方と共に過ごしたことによって、そうでなければ得られたであろう「別の人生」の〈すべて〉を失う。独身偽装による相手方との交際によって、全生活が規定され、自由に「別の人生」を歩む可能性が〈すべて〉封じられるからである。これほど人の自由と尊厳を踏みにじる行為が、他に存在するであろうか。

婚姻は、人生における最も重大な決定と言ってよいであろう。それは近代的な婚姻観念であって、その起源はルソーに遡る。いわく、「婚姻こそ人生の行く末を左右するので、そのことについて考えるための時間は、いくらあってもあり余るということはない」(『エミール』岩波文庫版・下96頁)。もちろん、婚姻は人生の全てではない。けれども、被害者は、〈婚姻のある人生〉を選び取ろうとしていたのである。

2 加害者が得たもの

加害者は、一方で独身者として、他方で既婚者として、二重の人生、二倍の楽しみを得る。つまり、(1)被害者との関係において、独身者でなければ得られない楽しみを享受する一方で、(2)現実の妻子との生活を何ら失うことなく、その生活も享受し続けたのである。

(1) 独身者としての愛情生活

加害者は、既婚者として自分の家庭を持ちながら、独身者として被害者との〈真剣な〉交際を楽しむ。被害者が、「加害者との人生」を過去も未来も含めて失ったのみならず、加害者との交際さえなければあり得たはずの「別の人生」も失ったのとは対極にある人生を過ごすのである。

ここに、被害者にとって最も耐え難い「著しい非対称性」が見られる。加害者は、被害者に対しては嘘の人生を押しつけながら、自分の側では家庭を維持している。これが、非対称性の核心である。自分の時間、努力、外見、忠誠心、将来への期待、結婚して子どもを持つ機会、生活・友人関係まで、〈すべて〉加害者にとって都合良く扱われ、支配されるのである。

そもそも愛の美しさと崇高さは、自分が相手を通して、また相手が自分を通じて、お互いに自分自身を発見していくところにある。人は誰かを想うことで、どれほど一生懸命になれるであろうか。どれほど優しくなれ、また臆病にもなれるであろうか。人は、愛する人の前で、最も自分らしくあることができる。それと同時に、大胆に自分を超えていくこともできるのである。被害者は、加害者との交際中、このような感情を抱く。

その〈すべて〉を受け取っていたのが、〈独身〉の加害者である。これが加害者が得た最大のものである。それは、もっぱら独身者同士の間でしかありえない「純粋な愛」であって、既婚者としては得ることの出来ないものである。加害者は、結婚を約束した者からでなければ受け取ることのできない時間、信頼、愛の〈すべて〉を獲得し、甘美な時間を味わい尽くす。

加害者は、現実には妻子と共に家族生活を続けながら、独身者であるという嘘の上に被害者との虚構の日々を過ごす。果たして、既婚者の加害者は、自分に都合の良い虚構にすべてを委ねてくれる被害者を見て、どう思うのであろうか。被害者の愛をどう受け止めるのであろうか。単に肉体的欲望を満たしてくれる便利な相手だったのか。独身偽装の本質は、単なる肉体関係の充足にとどまらず、純粋な愛や献身そのものを詐取し享受する点にある

(2) 既婚者としての家庭生活

加害者は、現実には自分の妻子と共に生活している。独身偽装の発覚によって、今後加害者は配偶者から離婚を求められるかもしれないが、それは身から出た錆びにすぎない。

少なくとも、加害者は、被害者との交際中、つまり、独身偽装発覚までは、現実には自分の妻子との生活を維持し、この部分を失うことはない。つまり、被害者との交際の果実を享受しながら、加害者は自分の家庭を持ち続ける。

将来、加害者の家庭がどうなるかは配偶者次第であろう。だが、〈将来〉を語ることのできる家庭が現に存在していることを忘れてはならない。その意味において、加害者は未来も失っていないということができる。

終わりに

以上、独身偽装による被害の内実をなるべく分析的に捉えようと試みた。近時、訴訟提起が散見される独身偽装被害であるが、そもそもその本質や法益侵害の深刻さについては正面から掘り下げられることが少なかった。そのためか、冒頭で言及した最新の裁判例においても、被害者に認められた慰謝料額は極めて低いと言わざるを得ない。

周知のように、慰謝料額は加害態様の悪性や被害者の蒙った精神的打撃の深さを踏まえて算定される。本稿を通じて独身偽装という加害行為の本質的悪質性が広く理解され、ひいては慰謝料額が少しでも高くなることに繋がるならば、本コラムはその目的を果たしたと言えるだろう。

一般論として、慰謝料額の算定のためには、さらに加害者の資産や被害者の置かれた状況なども考慮される。だから、加害者に資産があるときには、たとえば冒頭の事案においては、判決が認めた慰謝料額にゼロを一つ加えて、5000万円(東京地裁事件)や約1200万円(名古屋地裁事件)の賠償を命じても決して高くないはずである。デフォルトとして、「独身偽装一年につき1000万円の慰謝料」といった明確かつ十分な基準が定着していくべきだと考える。

本コラムが独身偽装被害者の権利救済と司法判断の適正化を促す一助となれば幸いである。今後もこの問題と真摯に向き合い、被害救済のために尽力していきたい。