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2026.10.29

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【SAKURA法律事務所 代表弁護士 道下剣志郎 Legal Update】営業秘密・技術情報の保護と流出時の法的対応――秘密管理性、転職・共同研究、証拠保全、差止・損害賠償と国際紛争【2026年版】について公開いたしました。

LEGAL UPDATE 43 | SAKURA法律事務所

当初調査日:2026年10月9日
分析基準日・最終改訂日:2026年10月26日

SAKURA法律事務所 代表弁護士 道下剣志郎

企業価値を左右する重要な資産は、必ずしも特許権等の登録された知的財産権として把握され、あるいは貸借対照表に計上されているとは限らない。製造条件、試験データ、ソースコード、価格算定の方法、顧客との取引履歴、研究開発の失敗から得られた知見などは、外部から容易に再現できないこと自体によって競争優位を生む。他方、その価値は、転職する従業員が日常業務の延長でデータを複製し、共同研究先が予定外の目的で利用し、あるいは買収後のシステム統合によってアクセス範囲が拡張されることで、短期間のうちに失われ得る。

この問題を秘密保持契約の違反としてのみ理解することには限界がある。日本の不正競争防止法に基づく営業秘密として保護を受けるためには、秘密管理性、有用性、非公知性という三つの法定要件を満たさなければならない。契約書に秘密情報と記載していても、法定要件が当然に満たされるわけではない。一方、法定の営業秘密に当たらない情報でも、契約上の守秘義務や他の法制度に基づく保護が検討される。請求原因と救済手段を取り違えれば、情報が流出した後に想定していた差止めや損害回復を実現できない。

制度と実務の双方に変化が生じている。2024年4月1日施行の不正競争防止法改正は、営業秘密侵害の損害算定及び一定の使用推定を拡充し、国境を越える侵害について特別の裁判管轄規定と適用範囲規定を整備した。経済産業省は2025年3月31日に営業秘密管理指針を改訂し、2026年6月にはその英語参考訳も公表している。また、2026年4月27日公表の技術流出対策ガイダンス第2版は、共同研究や調達時の技術的すり合わせを新たに重視する。ただし、法令による要件、行政の実務指針、私人間の契約及び裁判所が個別事案について認定した事実は、同列に扱うべきではない。[⁠2⁠‑⁠4⁠,⁠ ⁠7⁠‑⁠8⁠,⁠ ⁠1⁠0⁠‑⁠1⁠2⁠]

本稿では、経営者や法務責任者が情報を保護する目的から出発し、対象情報の特定、秘密管理の実装、人材の移動、共同研究とサプライチェーン、流出発覚時の証拠保全、民事・刑事手続、海外拠点及びM&Aという順序で検討する。求められるのは秘密の範囲を無限定に拡張する統制ではなく、企業にとって守るべき情報を確定し、必要な事業利用を妨げずに保護し、問題が起きた場合には法律上主張できる内容を証拠によって説明できる体制である。

本稿の要旨

不正競争防止法第2条第6項が定める営業秘密は、秘密として管理され、事業活動に有用な技術上又は営業上の情報であり、公然と知られていないものをいう。秘密管理性は、機密という文字を記載したかだけでなく、情報の性質、利用者の範囲、管理規程、アクセス権限、従業員が秘密と認識できる状況などを総合して判断される。2025年改訂の営業秘密管理指針は法的保護に必要な最低限の水準を示す行政資料であり、記載された対策を実施すれば全情報の営業秘密性が保証されるという認証制度ではない。[⁠1⁠‑⁠3⁠]

従業員の退職後も営業秘密を不正に使用・開示してよいわけではないが、転職や競業そのものを不正競争防止法が一般的に禁止するものでもない。営業秘密の不正利用の防止と、本人の職業選択の自由、正当に習得した技能・経験の活用を区別し、退職後の競業避止義務を設ける場合には対象業務、期間、地域、保護すべき利益、代償措置等を考慮して合理性を検討する必要がある。雇用時の秘密保持条項だけで対策を完結させず、異動、兼業、退職、人材採用を通じた情報の流れを管理することが重要となる。[⁠2⁠0⁠‑⁠2⁠2⁠]

技術開発やデータ事業では、守秘義務と情報利用権限を分けて設計する必要がある。共同研究先に評価目的で試作品の製造条件を知らせることと、その製造条件を独自製品に転用する権限を付与することは異なる。既存の技術情報、共同成果、改良発明、製造委託先が得る派生データを区別し、利用目的、再開示、クラウド、再委託、契約終了後の返還・消去、監査、事故報告を取引構造に応じて定めるべきである。2026年公表の技術流出対策ガイダンス第2版は、これらを考えるための政策的・実務的資料であって、契約上の権限や新たな刑事構成要件を自動的に創設するものではない。[⁠1⁠0⁠‑⁠1⁠4⁠]

流出が疑われる場合には、従業員を犯罪者と断定する前に、対象情報の特定、適法な証拠保全、権限管理、被害拡大の防止を優先する。不正競争防止法の差止請求、損害賠償、損害額推定、一定の使用推定及び訴訟上の秘密保持命令には、それぞれ固有の要件がある。2024年施行改正の第19条の2及び第19条の3も、国外侵害に日本法が無条件に適用される制度ではない。情報の創出から流出後まで、法的根拠と管理記録を一貫して備えることが、事業の自由を保ちながら情報資産を守る条件となる。[⁠1⁠,⁠ ⁠8⁠]

第1章 営業秘密の成立を左右する三要件
――経営上重要な情報と法的に保護される情報の境界

企業がある情報を営業秘密と呼ぶことと、裁判所が不正競争防止法上の営業秘密と認めることは同じではない。同法第2条第6項は、秘密管理性、有用性、非公知性という三つの要素を一体として要求する。どれほど事業に重要な設計図や顧客データであっても、秘密として管理していることが認められなければ、同法の営業秘密侵害を理由とする救済の前提を欠く。その反面、情報が高額で売買できることまで有用性の条件とされるわけではない。失敗した研究データ、歩留まり改善の履歴、不採用となった製造方法も、試行錯誤の重複を回避させるなど事業活動に有用であれば保護対象となり得る。[⁠1⁠‑⁠3⁠]

最も争われやすいのは秘密管理性である。2025年3月改訂の経済産業省「営業秘密管理指針」は、秘密管理の本質を、情報保有者の秘密として管理する意思が従業員等に認識可能な形で示されていることに置く。高度な暗号化設備や高額な認証サービスの購入が、あらゆる企業にとって法定の必須条件というわけではない。他方、守秘義務を定めた就業規則が存在するという抽象的事情だけで、事業所内のすべての情報が直ちに秘密になるわけでもない。企業規模、情報の形態、職務上の取扱い、対象者の認識可能性と管理措置の実態を合わせて捉える必要がある。[⁠2⁠‑⁠3⁠]

大阪地方裁判所第21民事部2025年2月13日判決(令和5年(ワ)第5749号)は、この境界を示す。裁判所は、問題となった見込客情報について、社内システムへのログインにより約1,700人の従業員が広く閲覧でき、私有パソコンやスマートフォンからもアクセスできる一方、一般的な就業規則の規定以外に、その情報を秘密として認識させる特段の措置が認められないことなどを重視して、秘密管理性を否定した。実際の契約者情報には閲覧制限が設けられていたことも踏まえ、判決が扱った情報の区分を取り違えてはならない。全社員が閲覧できる情報は例外なく営業秘密にならないという法則ではなく、当該情報の性質と運用の下で、秘密管理意思が客観的に認識可能であったかという判断として理解すべきである。[⁠1⁠5⁠]

これに対し、知的財産高等裁判所第2部2025年3月25日判決(令和5年(ネ)第10057号)は、競馬レース情報の作成に用いる指数算出データやプログラム等に関し、社外秘としての取扱い、社内ID・パスワードによる管理、退職者発生時のパスワード変更等を検討し、営業秘密性と一定の不正使用を認めた。同判決は、業務上の必要から従業員全員が閲覧できたという事情も踏まえて判断している。前記大阪地裁判決との比較から導くべきなのは、パスワードさえあれば足りる、あるいは全員が閲覧できれば必ず保護が失われるという単純な基準ではない。対象情報、業務上の必要性、秘密の認識可能性及び実際の管理措置を結び付けて評価する必要がある。[⁠1⁠6⁠‑⁠1⁠7⁠]

非公知性についても、資料がインターネットに掲載されていないという事情だけで判断してはならない。特許公報、製品マニュアル、業界の標準的知識、公開済みの学術論文、誰でも合理的な努力で得られる情報との関係を確認することが必要である。公知の要素から構成される情報であっても、選択・配列・組合せ全体が一般には知られておらず、通常容易に入手できない場合には、全体として非公知と評価される余地がある。作成に要する時間や費用は判断に関係し得るが、投資額や独自性だけで非公知性が成立するわけではない。したがって、研究開発部門が秘密として主張するものを、図面全体なのか、一定の工程条件なのか、パラメータの組合せなのか、第三者にも検証できる程度に定義する作業が不可欠となる。[⁠1⁠‑⁠3⁠]

ここで契約上の秘密情報との関係を整理する必要がある。秘密保持契約では、法定の三要件を満たさない未公表事業計画や交渉資料、個人情報、第三者から預かった情報についても、当事者間で利用目的と開示先を制限し得る。他方、契約が存在しない者に対する不正競争防止法上の差止めには、原則として同法が定める情報類型と侵害行為への該当性が必要となる。限定提供データは、業として特定の者に提供するため相当量が電磁的方法で蓄積・管理される情報を対象とする別の保護類型である。2024年施行改正では定義から除外されるものが「秘密として管理されているもの」から「営業秘密」へ改められたが、会員限定というだけで営業秘密又は限定提供データの全要件を満たすわけではない。会社法上の善管注意義務や民法上の契約責任、個人情報保護法、知的財産権法の適用も独立に検討すべきである。[⁠1⁠,⁠ ⁠8⁠‑⁠9⁠]

この区別を誤ると、平時には秘密の範囲を広げすぎて事業部門の利用を妨げ、有事には不正競争防止法の適用を立証できなくなる。企業がまず取り組むべきなのは、技術、人材、顧客、取引先の情報を一括して極秘とすることではなく、保護の根拠ごとに対象情報と管理方法を定義し、情報を保有する会社、創出した者、アクセスが必要な職務、契約上の利用権限を明らかにすることである。この整理ができて初めて、後に問題となる転職、共同研究、買収の際にも、何を守り、何を適法に共有できるかが判別できる。

第2章 秘密管理を証拠に変える――規程、アクセス権限、クラウド及び退職時統制

秘密管理を情報システム部門だけの作業にすると、法的な保護対象とシステム上のアクセス制限が一致しなくなる。研究開発部門は試作条件を重要と考えていても、共有フォルダの権限が過去のプロジェクト参加者に残ることがあり、営業部門は取引先の案件履歴を機密として扱っていても、顧客関係管理システムのエクスポート権限を全員に与えていることがある。契約で秘密を守ると宣言するだけでなく、日常業務において従業員が守るべき情報の範囲を理解でき、実際のアクセスがその範囲と整合していることが必要となる。

情報分類では、営業秘密の候補を、情報の名称だけでなく、作成部署、原本の所在、現行バージョン、保有主体、業務上の利用目的、権限者、社外への既存開示状況と関連付けて管理することが有効である。技術情報ならば設計基準、原価構成、試験条件、ソースコード、学習用データセット等の区分を置き、顧客情報ならば単なる連絡先と、独自に蓄積された商談履歴、価格受容性、将来の投資計画を分けて捉える。対象となるデータを後日に同一性が確認できる形で保全することは、秘密管理性のみならず、侵害行為、使用態様、損害の因果関係を立証する際にも重要となる。

システム管理は、技術的な高度さを競うものではない。業務の必要性に対応した閲覧権限、重要ファイルの書出し制限、外部共有の承認、認証記録、アクセスログの保持、異常な大量ダウンロードの検知、外部ストレージへの移動記録などを、情報の価値と漏えいの可能性に応じて組み合わせる。役職だけでなく案件単位で付与した権限を定期的に見直し、異動、出向、休職、退職、業務委託終了時に不要なアクセスを解除する。監査のためにログを保存する場合も、従業員の個人情報や通信の秘密に関する規律を無視して無制限に収集・閲覧してよいわけではなく、就業規則、利用規程、本人への周知、目的、保存期間、閲覧権限との整合を取る必要がある。[⁠5⁠,⁠ ⁠2⁠5⁠‑⁠2⁠6⁠]

クラウドや外部サービスの導入は、利便性と同時に情報の境界を変える。グループ共通のストレージ、生成AIへの入力、開発委託先が利用するソースコード管理サービス、海外拠点による障害解析、協力会社とのオンライン会議録画等では、従来の社内限定という前提が崩れ得る。外部への提供それ自体が直ちに秘密管理性を失わせるものではないが、開示範囲、受領者の義務、再提供の制限、保管場所、ログ、契約終了後の削除を管理できる仕組みが要る。AIサービスの利用も、このような営業秘密全体の管理体系の一場面として評価すべきであり、グループ共通の利用方針によって個別の研究契約や顧客契約の制限が当然に解除されるわけではない。

2024年2月改訂の経済産業省「秘密情報の保護ハンドブック」は、漏えいの動機と機会を考慮し、管理措置を段階的に組み合わせるための具体例を示す。2026年4月の「技術流出対策ガイダンス第2版」も、経営層が守るべき技術を見極め、人的移動や海外展開、共同研究に応じた措置を構築する重要性を扱う。ただし、これらは法律そのものでも、全企業に一律の設備投資額を命ずる基準でもない。既存の事業が許容し得る摩擦と費用を踏まえながら、法的保護に必要な水準と、より高い経営上の安全性を目指す任意の水準を区別して設計すべきである。[⁠5⁠,⁠ ⁠1⁠2⁠]

実務で見落とされやすいのは、秘密管理措置が行われたことの記録である。情報分類表の更新履歴、機密表示を付した日時、権限付与と解除の申請、秘密保持誓約書、教育の実施状況、外部共有時の承認書類が存在しなければ、紛争時に当時の管理状況を再構成することは困難になる。監査で発見された権限の過剰付与を放置していた場合には、企業が秘密にする意思をどのように実現していたのかが問われる。経営上の管理報告は、事故の件数だけでなく、権限レビューの完了率、例外承認の内容、委託先での取扱い、是正の履行を示せるものであることが望ましい。

最後に、漏えいの全てが外部からの侵入によるわけではないことを認識すべきである。通常業務の過程で閲覧できる情報を、権限を与えられた目的を超えて複製し、私的に保持することは、取得や使用の態様によって不正競争防止法上の問題となり得る。東京地方裁判所第47民事部2024年4月25日判決(令和5年(ワ)第70462号)では、アクセス権限を有していた者による別目的での複製が問題となり、裁判所は具体的な情報と行為態様を検討して使用・開示の差止め及びデータ廃棄等を命じた。したがって、正規アカウントによる操作だから問題がないという認識も、ログに大量取得の痕跡があるから直ちに犯罪だという認識も、いずれも適切ではない。権限の目的、取得行為の方法、利用状況、秘密管理性を総合して判断する必要がある。[⁠1⁠8⁠]

第3章 人材の移動と競争の自由――退職後の秘密保持、競業避止及び新規採用の法務

転職に伴う営業秘密の流出は、企業が情報を利用する権利と、個人が培った能力を次の職場で発揮する自由が最も鋭く交錯する場面である。従業員の頭の中にある情報を全て前職の財産とみなすことはできない。専門的な技能、一般的な業務経験、業界で通常知られた知識まで永続的に排他的に使用できるとすれば、労働市場における正当な競争が失われる。他方、前職が長期の研究投資によって得た製造条件や、一般には把握できない顧客別の価格戦略を、競合企業のために秘密保持義務に反して開示・使用する行為については、転職を理由として免責されるわけではない。

不正競争防止法第2条第1項の営業秘密に関する規定は、不正取得、取得後の使用・開示、正当に開示された情報についての図利加害目的での使用・開示、転得者による一定の取得・使用・開示等を、行為の経緯と認識に応じて区別している。したがって、退職者が会社の情報を保持していること、競業会社に転職したこと、あるいは転職先の売上が伸びたことだけで、直ちに特定の不正競争行為が成立するわけではない。会社は、対象情報が何であり、どの時点で、どのような権限の下に取得され、どの目的で使用・開示されたのかという一連の事実を示す必要がある。[⁠1⁠]

雇用契約や就業規則で定める守秘義務と、退職後の競業避止義務についても混同は避けなければならない。守秘義務は通常、特定の秘密情報の不正利用を防ぐことを目的とする。他方、競業避止条項は秘密情報の使用の立証を要せずに転職先や就業内容そのものを制約し得るため、本人の職業選択の自由に対する制限が大きい。裁判実務では、使用者の守るべき利益、従業員の地位、制限する業務と地域の範囲、期間、代償措置その他の具体的事情を踏まえ、過度な制限が民法第90条の公序良俗に反して無効となり得る。全国・全業種で長期間競業を禁止する定型条項が、職務の性質にかかわらず常に有効というわけではない。[⁠2⁠0⁠‑⁠2⁠2⁠]

したがって、研究開発責任者と店舗スタッフ、顧客別の価格戦略にアクセスする営業統括者と一般の間接部門担当者について、同一内容の広範な競業禁止を機械的に課すべきではない。退職後に保護する利益を特定し、技術と市場の変化が早い場合には合理的な期間を慎重に定め、制限する競争行為が具体的な秘密へのアクセスとどのように結び付くか説明できる条項とすることが重要である。代償措置の有無は一つの考慮要素であるが、金銭を支払えば範囲の過大な禁止が必ず有効になるわけではない。秘密保持、成果物の返還、顧客への勧誘、競業、職務発明の帰属を、それぞれ異なる利益を保護する条項として整理する必要がある。

大阪地方裁判所第26民事部2024年10月31日判決(本訴・令和5年(ワ)第2681号、反訴・令和6年(ワ)第585号)は、仕入れ業務を担当していた従業員の退職後の競業避止条項を検討した。裁判所は、場所的な限定なく退職後一律5年間の競業を禁止し、何ら代替措置を伴わないなどの事情から、当該合意を民法第90条の公序良俗に反し無効と判断した。この種の判決を競業避止条項全般の一律無効という意味で受け取るのではなく、保護すべき利益と、制限の必要性・範囲・代償措置の関係を具体的に説明できるかを点検すべきである。[⁠2⁠0⁠‑⁠2⁠2⁠]

日常の人事管理では、雇用開始時よりも異動や退職前後の対応が問題となりやすい。研究開発から営業への配置転換、グループ外への出向、社外取締役への就任、兼業許可などにより、ある時点で必要だったアクセスがその後も継続することがある。退職が決まった時点で一律に全ての権限を遮断すれば事業継続や退職者の権利との衝突が生じ得るため、引継ぎに必要な範囲を見極めながら段階的に権限を見直す。退職時には対象端末や貸与媒体、個人クラウドへの業務データの同期、顧客情報のエクスポート権限等を確認する一方、本人の私的通信や私有端末を会社が無制限に調査できると決めつけてはならない。就業規則、事前の同意、個人情報保護、具体的な疑義の程度に応じた適法な調査設計が必要となる。

受け入れる企業にも固有の法的リスクがある。競合他社から有能な研究者や営業担当者を採用すること自体は、通常の競争行為である。しかし、採用に際して前職の顧客データや設計ファイルの持参を求めたり、前職で作成した社外秘資料を面接資料として受領したりすれば、自社の取得・利用行為について不正競争防止法上の検討が必要になる。採用面接で説明を求めるのは経験や成果の概括にとどめ、前職の秘密が含まれる可能性のある資料を提出させないこと、着任後の開発で独自の情報源と作業履歴を記録することは、採用企業の防御にとっても有用である。前職の秘密を意図せず受領した場合には、そのまま開発環境に取り込まず、利用停止、隔離、保全、返還方法の協議を検討すべきである。

もちろん、従業員による情報の外部提供が常に不正な開示となるわけでもない。公益通報者保護法の保護を受け得る通報、行政機関等に対する法令上適法な情報提供、裁判上必要な提出などには別の法的検討が必要となる。会社が秘密保持条項を根拠として法的に保護される通報や適法な相談を一律に封じることはできない。秘密を守るための制度は、秘密情報の不正利用を抑止するために用いられるべきであり、違法行為の隠蔽や従業員への不当な制裁の手段として用いるべきではない。[⁠2⁠7⁠]

第4章 共同研究、製造委託、データ連携――秘密保持契約を取引設計へ組み込む

単独で完結する研究開発よりも、大学、スタートアップ、部品メーカー、ソフトウェア開発会社、海外製造拠点がそれぞれ専門能力を持ち寄る取引の方が、営業秘密の帰属と利用権限は複雑になる。企業は、他者の技術情報を受け取らなければ製品を開発できない一方、開示した情報が本来予定しない用途に利用される危険を負う。2026年4月の技術流出対策ガイダンス第2版が共同研究と調達時のすり合わせを新たに扱った意義も、重要な技術情報の移転が特別な技術供与契約だけでなく、日常的な協議や品質調整の過程で生じることにある。[⁠1⁠0⁠‑⁠1⁠2⁠]

この局面で最初に定めるべきなのは、秘密として扱う情報と、その利用が許される範囲である。例えば、電子部品メーカーが発注者へ製造条件を提示し、製品の歩留まり向上を共同で検討する場合、発注者が当該条件を契約対象製品の品質検証に利用することと、別のサプライヤーへ条件を渡して同種製品を製造させることは同一ではない。後者を許すかどうかは、技術情報の権利帰属、目的外使用、秘密保持、知的財産ライセンス及び競争法上の問題と結び付けて判断する必要がある。秘密保持条項だけで、許容される製造利用や成果物の利用許諾まで当然に定まるわけではない。同じ問題は、不具合修正のために提供したソースコードが競合サービスの開発に転用される場合にも生じる。

共同研究開発契約では、契約締結前から各当事者が保有する技術、研究中に新たに発生する成果、既存技術に加えられた改良、特許出願可能な発明、発明には至らないノウハウ、機器運転時に得られる計測データを区別する。とりわけバックグラウンド技術について、共同研究への提供が権利譲渡や無限定の実施許諾を意味しないことを明確にし、研究目的で必要な使用権、成果物の利用に必要なライセンス、終了後のアクセスの存続を調整する。共同研究の進捗に伴い秘密性が変化する場合には、成果の公表、学会発表、特許出願、研究者の論文提出に必要な事前確認の手続を設けることが重要である。

特許出願を選択するか、非公開のノウハウとして管理するかも経営判断となる。特許には一定の公開と期間の制約がある一方、営業秘密は秘密性を保てる限り保護対象となり得るが、他者が独自に開発した技術の利用を一般的に排除するものではない。製造工程が外部から観察しにくい一方で、侵害を証明するためには相手方の設備情報が必要になる場合もある。経営者は、技術の模倣可能性、公開による影響、権利行使の容易さ、開発者の移動、取引先への開示の必要性を踏まえ、出願と秘密管理を事業単位で組み合わせるべきである。[⁠1⁠,⁠ ⁠2⁠8⁠]

取引先との情報共有が増えれば、当初の契約当事者の外側にアクセス主体が広がる。再委託先の工場、品質検査機関、クラウド提供会社、データ分析業者、専門家、海外グループ会社に何を開示できるかは、必要性に応じて定義する。特に、再委託を包括的に承認する条項だけでは、重要情報の利用目的、再委託先による再々委託、データ学習への転用、処理場所の変更、従事者の入替えを十分に制御できない場合がある。契約では情報の分類、アクセス可能者、受領者に課す同等の義務、事故時の報告と協力、監査と証跡、返還・消去・バックアップの取扱いを相互に整合させる必要がある。

秘密保持契約に一般的に置かれる既知情報、公知情報、正当な第三者取得、独自開発、法令上要求される開示の例外も、当該取引の性質に応じて検討すべきである。秘密保持義務の例外を広く認めれば保護範囲が曖昧になる一方、秘密情報に含まれる要素を一切利用できないとすれば、独自開発や通常の技術蓄積を不当に妨げる可能性がある。情報の開示日、対象ファイル、目的、必要に応じた開示先を記録し、秘密情報がどのような状態で相手方に示されたかを残すことは、将来の紛争における説明を容易にする。

特許庁及び経済産業省が公表するオープンイノベーション促進のためのモデル契約書(新素材編・AI編のver.2.2は2025年4月改訂)は、共同研究やPoCで秘密保持、知的財産の帰属、成果利用を整合させるための参考となる。ただし、標準的なモデルを採用しただけで、個々の当事者の交渉力、技術の価値、独占利用の合理性が反映されるとは限らない。とりわけスタートアップの中核技術が大企業との実証実験に組み込まれる場面では、研究目的のアクセス権を事業化段階まで無限定に延長しないこと、成果の帰属と利用対価を事前に整理することが不可欠である。情報を守る契約と技術を利用する契約を分離しつつ、契約群全体で矛盾のない構造を作るべきである。[⁠1⁠4⁠]

第5章 漏えい疑義が生じた直後の対応――証拠保全と被害拡大防止の優先順位

情報流出の可能性が発覚すると、企業は直ちに当事者へ説明を求め、端末や私物の提出を命じ、取引先に警告書を送付したくなる。しかし、初動を急ぐあまり調査権限を超えた行為をすれば、後に証拠の信用性や従業員の権利をめぐる別の紛争を生じさせる。重要なのは、対象情報の内容と所在、誰がいつ接したか、正当な職務権限の範囲、外部への転送や複製の可能性、直ちに停止すべき情報利用を、限られた時間の中で別々に検証することである。

最初の段階では、システムログ、認証履歴、社用端末の管理記録、外部ストレージへの転送履歴、クラウドの共有設定、契約書、情報分類表、管理規程、退職手続等を、保存期間の経過や自動上書きによって消失しないように保全する。保全時には、取得日時、取得者、複製方法、原本との同一性、ハッシュ値等、後日の検証に必要な情報を可能な範囲で記録する。専門のフォレンジック事業者を利用する場合にも、対象データが外部や国外の環境へ移転されることの適法性、秘密情報の開示範囲、第三者情報の取扱いを契約及び手続で制御する必要がある。法務部門は調査目的を明確にした上で、情報セキュリティ担当者の技術判断を適切に受け止めるべきである。

問題が従業員に関係する場合、会社の所有する業務端末へのアクセスと、私有端末や個人アカウントの調査は区別すべきである。従業員による不正の疑いがあるとしても、本人の私物を包括的に検査する権限が自動的に生じるわけではない。就業規則、端末利用規程、本人の同意、事実関係、個人情報の保護、第三者の通信内容が混在する可能性を検討する。取締役や元従業員が関係する場合には、調査の独立性、利益相反、関係資料の保全、会社側の意思決定者の選定にも注意を払う。必要であれば裁判所による保全手続や証拠調べ等の利用を検討し、私人間の一方的な調査で権限を代替しようとしてはならない。民事訴訟法第234条の証拠保全は、あらかじめ証拠調べをしなければその証拠を使用することが困難となる事情がある場合の手続であり、相手方の端末を無限定に捜索する制度ではない。利用停止を求める仮処分とは、目的と要件を分けて検討する。[⁠2⁠3⁠‑⁠2⁠4⁠,⁠ ⁠2⁠6⁠]

被害拡大防止については、調査と並行して正当なアクセスの再設定や外部共有リンクの無効化、協力会社の認証情報の更新、問題となるファイルの配布停止などを検討する。ただし、相手方が使用したと推測するシステムに無断で侵入したり、遠隔でデータを破壊したりすることは、たとえ自社情報の回収を目的としていても法的な正当化が困難である。証拠を確保する前に関連システムを初期化すれば、侵害態様の解明も困難になる。停止措置と証拠保全の順序を調整し、誰の判断で何を変更したかを記録することが必要である。

対外対応にも段階がある。退職者や転職先企業に対する照会は、保全された事実と法的評価を区別し、対象情報、疑義の根拠、利用停止・保存を求める範囲を具体的に示すべきである。営業秘密であることを十分に確かめないまま「犯罪が成立した」と対外的に公表することは、名誉毀損や信用毀損、採用妨害等の別の責任を生じさせ得る。取引先への連絡、損害保険、開示義務、適時開示の検討についても、事実の確度と開示先ごとの必要性を見極める。情報流出の疑いが、顧客個人情報や規制対象技術に及ぶ場合には、個人情報保護法や外国為替及び外国貿易法等の独立した報告・規制の要否も確認しなければならない。
[⁠2⁠6⁠,⁠ ⁠2⁠9⁠]

内部調査では、会社が勝つための証拠を集めることと、会社にとって不利な事実を含めて真相を確定することを混同しないことが重要である。外部委託先の設定ミス、承認手続の形骸化、開示先の説明不足など、流出元の管理不備が原因となっている場合もある。対象情報の秘密管理性を損なう事情を把握したとき、それを隠して訴訟上の主張を組み立てるべきではない。守るべき範囲と損害の現実的な見通しを評価し、必要に応じて再発防止、契約交渉、差止め、損害回復を組み合わせることが、紛争の長期化による二次被害を避けることにつながる。

調査の終盤には、保全した資料の目録化、社内意思決定の記録、退職者と外部受領者のそれぞれに対する請求可能性、今後の営業への影響と費用を整理する。実際の侵害者が複数存在する場合、取得した者、利用した者、開示先となった者について不正競争防止法第2条第1項の該当号と主観的要件が異なり得る。刑事告訴を検討する場合にも、民事上の債務不履行と営業秘密侵害罪の成立要件が一致するわけではない。会社の対応方針は、強い表現の警告書を先に送るかどうかではなく、具体的な法的構成と証拠の質に基づいて決める必要がある。

第6章 差止請求、損害賠償、刑事手続――侵害の立証と救済手段をどう組み合わせるか

営業秘密の流出が疑われるとき、企業がまず明確にすべきなのは、情報の返還を求めたいのか、現に行われている利用を止めたいのか、将来の利用を防ぎたいのか、過去に生じた損害を回復したいのかという目的である。日本の不正競争防止法は、この全てを一つの包括的な請求権にまとめているわけではない。第3条第1項は営業上の利益を侵害され、又は侵害されるおそれがある者の差止請求を規定し、同条第2項はその請求に際して必要な廃棄その他の措置を求めることを認める。また、第4条は故意又は過失により営業上の利益を侵害した者に対する損害賠償を定める。差止めと損害賠償では必要な事実の範囲が異なり、さらに契約違反を理由とする請求、民事保全法上の仮処分、刑事告訴はそれぞれ別の判断を要する。[⁠1⁠,⁠ ⁠2⁠3⁠]

差止請求では、秘密として保護を求める情報を相手方と裁判所が識別できる程度に特定するとともに、相手方の取得・使用・開示の態様と、侵害のおそれを具体的に主張することが重要である。抽象的に自社の全顧客情報や全技術資料の利用を禁止せよと求めても、対象を特定できなければ実効的な裁判は困難になる。現に進行する事業化を止める必要がある場合、仮処分を検討し得るが、被保全権利及び民事保全法第23条第2項の著しい損害又は急迫の危険を避ける必要性等に関する疎明、相手方事業への影響、担保、申立ての具体的内容が問題となる。最初から仮処分が認められると約束するのではなく、早期に保全できる証拠と必要な申立範囲を評価しなければならない。[⁠2⁠3⁠]

損害賠償の立証では、情報が持ち出されたという事実と、その情報が競争上利用され、権利者にどのような損害を与えたかとの間に距離がある。不正競争防止法第5条は、一定の損害額算定や推定の方法を設けており、2024年4月1日施行の改正では、同条第1項の対象が営業上の秘密や役務にも広がり、販売・提供能力を超える数量等について使用許諾の対価相当額を加算する仕組みが整備された。ただし、使用を許諾し得たと認められない場合には、その加算部分は除外される。もっとも、ライセンス料相当額が当然に確定額として支払われるわけではなく、侵害行為の類型、対象となる営業秘密、実施態様、利益の帰属、因果関係等に応じた検討が必要となる。情報資産の価値を訴訟提起後に抽象的に語るのではなく、事業計画、研究費、利益構造、取引先の動向を平時から説明可能な形で整理することが重要である。[⁠1⁠,⁠ ⁠8⁠]

同法第5条の2は、物の生産方法等に係る一定の技術上の秘密について、所定の取得、領得又は保有と、その秘密を用いれば行い得る所定の生産等が立証された場合に、不正な使用を推定する規定である。2024年施行改正により、取得後に不正な取得・開示の介在を知るなどして所定の保有を続ける類型や、正当に示された秘密を図利加害目的で任務に背いて領得する類型等が追加された。ただし、あらゆる技術情報や顧客情報の持出しを一律に使用とみなす制度ではなく、営業秘密の三要件、該当項の前提事実及び生産等との対応を立証する必要がある。研究開発履歴、製造条件の変化、業務上の指示、プログラムの版管理等は、推定の適用にも、その反証にも関係する。[⁠1⁠,⁠ ⁠8⁠]

適用時期にも注意を要する。令和5年法律第51号附則第2条第2項から第4項は、新たな使用推定の各類型について、施行日前から継続する所定の保有や施行日前の所定の領得に係る場合を適用から除外している。したがって、生産等が2024年4月1日以後に行われたことだけで、拡充された全ての推定規定が適用されるわけではない。取得、認識、領得、保有及び使用の時系列を分けて確認する必要がある。[⁠8⁠]

訴訟手続には、秘密を守るための固有の仕組みが設けられている。第6条の具体的態様の明示義務、第7条の書類提出等、第10条の秘密保持命令、第13条の一定の当事者尋問等の公開停止などである。これらは、権利行使のために秘密の内容を裁判所や相手方へ提出することによって、かえって秘密が拡散する問題を軽減する。しかし、秘密保持命令が全ての資料に当然に付されるわけではなく、要件、対象者、申立ての具体性を満たす必要がある。訴訟前の段階から、裁判で開示し得る情報の範囲と、その管理方法を代理人・技術担当者間で調整しておくべきである。[⁠1⁠,⁠ ⁠6⁠]

裁判例は救済の幅も示している。東京地方裁判所2024年4月25日判決(令和5年(ワ)第70462号)は、同判決で認定された営業秘密の利用・開示の禁止、関連データ及び複製物の廃棄、一定の金銭支払を命じた。一方、知的財産高等裁判所2025年3月25日判決(令和5年(ネ)第10057号)も、個別事情に基づき、情報の使用・開示の差止めや削除・廃棄、損害賠償に関する判断を示した。これらは事実関係と請求内容に依存する個別の裁判であって、データの持出しが判明した全事件で同じ救済が認められるという一般的な結論ではない。[⁠1⁠6⁠‑⁠1⁠8⁠]

刑事責任については、同法第21条及び第22条等の構成要件と法定刑を、民事上の不正競争の成立と別個に検討する必要がある。刑事事件では、営業秘密性に加え、所定の領得、使用、開示の態様、図利加害目的その他の要件が問題となる。東京地方裁判所刑事第8部2025年2月25日宣告判決(令和5年特(わ)第1278号)では、研究機関で生じた技術ノウハウについて、研究成果の帰属・守秘規程、施設の施錠、職員固有のパスワード及び研修による周知等を踏まえて秘密管理性が認められた。研究成果が管理者に個別に認識されていなければ常に秘密にならないと解することは適切ではない一方、この判決をあらゆる研究機関へ機械的に拡張することも避けるべきである。刑事告訴を行うかどうかは、犯罪の成立可能性、証拠、被害防止、事業継続への影響を総合して判断する。[⁠1⁠9⁠]

民事と刑事は時に並行するが、刑事手続を交渉上の威嚇として用いることや、刑事告訴の受理をもって民事上の侵害と損害が確定したと説明することは相当でない。企業の目的が技術の利用停止にある場合と、既に生じた競争上の損失を回復することにある場合とでは、相手方への要請、仮処分、本訴、和解、刑事対応の優先順位が異なる。経営者は強硬さそのものではなく、秘密を守り、顧客と事業の価値を保ち、法的に説明できる結果を実現するための選択を行うべきである。

第7章 国際取引・M&Aと取締役会の責任
――非公開情報を持続的な企業価値として管理する

情報の保有者が日本企業であっても、侵害の場所が日本国内に限られるとは限らない。国外の研究者による電子ファイルの取得、海外工場での製造条件の転用、国際共同開発契約の終了後における技術使用、買収に伴う海外親会社へのサーバー統合など、情報の保管場所、利用場所、開示者、受領者が複数国に分かれる場面がある。契約上の準拠法・紛争解決条項と、不正競争防止法に基づく侵害請求の国際裁判管轄及び適用範囲は、同一の問題ではない。秘密情報を含む国際取引では、どの法的根拠に基づいて、どこの裁判所又は仲裁で、どの相手方に何を求められるかを早い段階から整理すべきである。

2024年4月1日施行の改正で新設された不正競争防止法第19条の2は、日本国内において事業を行う営業秘密保有者の、日本国内で管理される営業秘密に関する所定の侵害について、日本の裁判所へ訴えを提起できる旨を定める。第19条の3は、同様の接続要件の下で国外行為にも同法第1章、第2章及び第3章を適用する規定であり、刑事責任の国外適用を一括して定めたものではない。両条が対象とする不正競争は、第2条第1項第4号、第5号、第7号又は第8号の4類型に限定され、当該秘密が専ら日本国外の事業に供される場合は除かれる。営業秘密保有者の国籍それ自体を要件とする制度でもない。[⁠1⁠,⁠ ⁠8⁠]

日本企業が保有するという理由だけで、世界中の全ての侵害について日本の裁判所の管轄と日本法の適用が成立するわけではない。他方、これらの特則を利用できない場合にも、民事訴訟法による一般の国際裁判管轄、法の適用に関する通則法等による準拠法、契約上の紛争解決合意は別途検討する必要がある。訴えを提起できる国と、請求の判断に用いられる法を、ひとつの結論にまとめてはならない。[⁠2⁠4⁠,⁠ ⁠3⁠0⁠]

これらの規定によって、日本国内で保有・管理している情報の国際的侵害に対する法的手当てが明確になったことには重要な意味がある。しかし、日本の裁判所が管轄を有することと、外国に所在する相手方への適法な送達、証拠収集、外国資産への強制執行、判決の承認が円滑に行われることは別である。外為法による技術移転規制、外国法上の秘密情報保護、個人情報の越境移転、裁判外の仲裁合意の有効性についても、それぞれ独立した判断が必要となる。国際取引契約では、秘密情報の提供先、国外での使用許諾、再開示の承認、違反時の保全措置及び協力義務を、想定する事業形態に即して定めることが望ましい。

M&Aでは営業秘密が事業価値の源泉であると同時に、買主が安全に取得・利用できるかを確かめるべきリスク資産ともなる。対象会社が特許出願をせず独自技術を秘密として蓄積している場合、買主は保有する技術の実体、創出者、関連する職務発明規程、元従業員及び共同研究先との契約、独自開発の証跡、秘密管理措置を確認する必要がある。もっとも、デューデリジェンス資料室に全ての製造条件や顧客情報を無制限に開示すれば、買主候補やその助言者への開示自体が対象会社の情報価値を損なうおそれがある。検討段階では段階的開示、閲覧可能者の限定、匿名化・抽象化、目的外使用禁止等を組み合わせ、契約締結後及びクロージング後のアクセスを設計することが重要である。

株式譲渡契約では、重要な営業秘密の保有・利用権限、第三者の権利侵害の不存在、秘密保持契約の履行、重大な流出事故、退職者や共同研究先からの請求、情報管理体制に関する表明保証と補償を検討する。事業譲渡や会社分割の場合には、どの法人が情報の保有者となり、使用権限をどの根拠で移転させるかについて、情報の性質や契約上の制限を確認する必要がある。価格調整又はクロージング条件が必要となるかは、対象技術が事業の中心価値を占める程度、代替可能性、問題が判明した場合の是正可能性により異なる。秘密管理性の有無を契約書の保証だけで創設することはできず、買主の調査と売主の継続的な管理体制を整合させるべきである。

買収後の統合では、情報システムの合理化が新たな流出経路となることがある。グループ共通のクラウドへの移管、権限の一元化、外部委託先の統合、研究者の国際異動、技術情報のグループ内ライセンスなどは、情報の開示先と利用目的を変更する。特に対象会社が第三者から受領した秘密情報については、買収によってグループ内の全法人が自由に利用できるわけではない。契約上の承諾、再委託、再利用、データ移転、第三者の知的財産との関係を確認した上で、統合後の管理責任者と権限管理を定める必要がある。

取締役会が監督すべき内容も、単に漏えい件数やセキュリティ予算の推移に限られない。中核技術と競争優位を生む情報が特定され、保有主体とアクセス権限が把握され、取引先への開示が契約と整合し、退職・異動に応じて管理が更新され、疑義発覚時に法務と情報セキュリティ部門が適時に対応できることを、検証可能な記録によって確認する必要がある。内部監査が発見した不備を経営判断に反映しなければ、規程を整備した事実だけでは実効的な管理を説明できない。これらは個々の取締役の責任が自動的に成立することを意味するものではないが、企業価値の保全に係る合理的な内部統制という観点で重要な監督事項となる。

営業秘密を守ることは、企業を閉鎖的にし、情報共有を無条件に減らすことではない。新規事業の開拓には人材の移動と協業が不可欠であり、M&Aの実行には情報開示も必要である。優れた秘密管理とは、法的に守るべき対象を限定し、合理的な利用を認めながら、その境界がいつ、誰によって、どの根拠で変更されたかを説明できる体制である。法令上の要件、行政が示す実務上の推奨、契約上の義務、事実認定を峻別しつつ、取引と紛争の双方に耐える記録を蓄積することによって、非公開情報は企業の持続的な資産となる。

FAQ(よくある質問)

Q1 営業秘密にするには必ず「極秘」と表示しなければならないのか。

必ずしも極秘という語句の表示が必要なわけではない。秘密管理性は、情報の性質、アクセス制限、規程、受領者の認識可能性等によって判断される。もっとも、重要情報について適切な表示や分類を行うことは、管理意思を明確にする有用な措置となる。表示だけで全要件の充足が保証されるものではない。

Q2 秘密保持契約を締結すれば、不正競争防止法上の営業秘密として保護されるのか。

契約締結だけで法定の三要件が当然に満たされるわけではない。秘密管理性、有用性、非公知性は個別に確認する必要がある。他方、営業秘密に該当しなくても、契約による守秘義務違反が成立し得る。不正競争防止法による救済には、該当する不正取得・使用・開示等の要件も別途満たす必要がある。

Q3 全従業員が閲覧できる社内システム内の顧客情報は営業秘密にならないのか。

必ずしもそうではない。裁判所は対象情報と管理実態を総合判断する。2025年2月13日の大阪地裁判決では多数の従業員が容易にアクセスでき、特段の秘密管理措置が認められない事情等を重視して秘密管理性を否定したが、閲覧者の人数だけで結論が決まるわけではない。

Q4 退職した従業員は前職で習得した知識を転職先で一切使用できないのか。

使用できる場合がある。一般的な技能や経験、公開情報と、法的に保護される営業秘密の不正利用は区別される。秘密保持義務、競業避止義務の有効範囲、不正取得・使用・開示の具体的事実を確認しなければならない。

Q5 退職後の競業避止条項は、署名があれば常に有効か。

常に有効とは限らない。守るべき企業利益、従業員の地位、業務・地域・期間の制限、代償措置等を考慮し、過度な制限は公序良俗に反して無効となり得る。秘密保持義務と競業そのものの制限は別個に検討する。

Q6 競合他社からの採用時に、前職の研究資料を持参してもらってよいか。

慎重な対応が必要である。前職の営業秘密が含まれる資料の持参を求めることは、受け入れ企業自身の不正取得等のリスクにつながる。経験・能力の説明と秘密資料の受領を分け、独自開発と採用後の情報管理について記録を残すべきである。誤って秘密資料を受領した場合は、利用・再開示を止め、証拠を保全した上で返還等の方法を個別に検討する。

Q7 共同研究契約で秘密保持条項を設ければ、成果物の権利帰属も決まるのか。

決まらない。既存技術、共同成果、改良発明、ノウハウ、研究データの帰属と利用権限は、秘密保持とは別に定める必要がある。公開・出願、再委託、研究終了後の使用も含めて調整すべきである。研究遂行と事業化に必要なライセンス、グループ会社の利用も、当然に許されるとは限らない。

Q8 情報持出しが発覚したら、元従業員の私有スマートフォンを直ちに調べてよいか。

当然に調査できるわけではない。会社端末と私有端末では権限が異なる。本人同意の有無、就業規則、調査の必要性、プライバシーや個人情報を踏まえ、適法な証拠保全手段を選ぶ必要がある。社内のログ等は速やかに保全し、疑いがあることと無限定の調査権限があることを混同してはならない。

Q9 営業秘密が流出した場合、使用・開示の差止めとデータ廃棄を求められるか。

第3条第1項の差止請求及び、これに際して求める同条第2項の必要な廃棄等の措置が検討できる。対象情報の特定、秘密管理性、該当する不正競争行為、侵害又は侵害のおそれを立証する必要があり、全ての流出事案で当然に認められるものではない。

Q10 2024年施行の改正によって、営業秘密侵害の損害賠償は必ず増額されるのか。

必ず増額されるわけではない。第5条の損害算定や第5条の2の一定の使用推定が拡充されたが、適用される行為と法定要件、損害の内容及び具体的証拠を検討する必要がある。拡充された使用推定には施行日前の保有・領得に関する経過措置もある。

Q11 海外で侵害が発生すれば、日本の裁判所で常に訴えることができるか。

常に訴えられるわけではない。第19条の2の特別な管轄規定と第19条の3の適用範囲規定は、国内での事業・管理、第2条第1項第4・5・7・8号の行為、専ら国外事業に供される秘密の除外等を区別して確認する。特則の対象外でも一般の管轄・準拠法及び契約上の紛争解決合意は別途検討し、外国での送達や執行も確認する。

Q12 M&Aの買収後、対象会社の営業秘密を海外親会社が自由に使えるか。

当然には使えない。対象会社自身の営業秘密についても契約と適法な情報管理が問題となり、第三者から受領した秘密情報には開示・利用を制限する契約があり得る。DD段階から情報源と利用権限を確認し、PMIのシステム統合まで管理する必要がある。

代表弁護士 道下剣志郎「Legal Update」について

SAKURA法律事務所及び代表弁護士 道下剣志郎は、企業法務、M&A、プライベート・エクイティ、国際取引・紛争、金融規制、企業統治、危機管理、経済安全保障、AI・データ保護、知的財産その他企業の重要な経営判断に関わる法的課題について、公式一次資料を基礎とするLegal Updateを継続的に公表している。本シリーズは、法令、行政指針、裁判例、契約実務の位置付けを区別し、制度解説を企業経営の判断、取引設計、内部統制、紛争対応へ結び付けることを目的とする。事務所及び執筆者に関する情報は、SAKURA法律事務所の公式サイトと代表弁護士のプロフィールページで案内している。

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SAKURA法律事務所では、営業秘密の範囲及び管理体制の見直し、秘密保持・競業避止条項、従業員の転職・退職に伴う情報持出し対応、共同研究・開発委託・ライセンス契約の設計、流出疑義発覚時の証拠保全と調査、使用・開示の差止め、損害賠償・民事保全・刑事対応、国際的な技術情報管理、M&Aのデューデリジェンス及び統合後の情報管理等について、関係法制度を横断した検討を行うことができる。実際の救済可能性は、情報の性質、管理状況、取得・使用の経緯、契約と証拠、相手方の所在等に左右されるため、個別事情に即した評価が必要となる。訴訟又はその他の手続の結果を保証するものではない。

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主な参考資料

本文の角括弧内の番号は以下の資料に対応する。日英版は同一番号・同一リンク先を使用する。法令の日本語正文を優先し、行政指針・英訳・契約モデルはその法的位置付けに応じて参照する。裁判例は各判決時の判断を紹介するもので、上訴・確定状況を示すものではない。更新型ページ及び日付の記載のないページの参照基準日は2026年10月26日。

1. e-Gov法令検索|不正競争防止法(平成5年法律第47号。現行日本語条文)

2. 経済産業省|営業秘密~営業秘密を守り活用する(管理指針の公表ページ。2025年3月改訂、同年4月17日脚注訂正)

3. 経済産業省|営業秘密管理指針(2025年3月31日改訂。行政指針本文)

4. 経済産業省|不正競争防止法・英語資料(2026年6月公開の管理指針英訳等。日本語法令を優先)

5. 経済産業省|秘密情報の保護ハンドブック~企業価値向上に向けて~(2024年2月改訂。実務上の参考資料)

6. 経済産業省|逐条解説 不正競争防止法(2024年4月1日施行版。制度解説。後の改正は現行法令で確認)

7. 経済産業省|過去の法改正(令和5年改正及び2024年4月1日施行関係資料)

8. 衆議院|不正競争防止法等の一部を改正する法律(2023年6月14日公布、令和5年法律第51号。成立法律・附則)

9. 経済産業省|限定提供データと利活用(限定提供データに関する指針等の公表ページ)

10. 経済産業省|技術流出対策ガイダンス第2版の公表(2026年4月27日。正式版の公表資料)

11. 経済産業省|Technology Leakage Prevention Guidance, Version 2, Compiled(2026年4月27日。英語公表資料)

12. 経済産業省|技術流出対策ガイダンス第2版(2026年4月27日公表。e-Gov意見公募結果に添付された正式版本文)

13. 経済産業省|技術流出対策(ガイダンス及び関連資料を掲載する更新型ポータル)

14. 特許庁|オープンイノベーションポータルサイト(新素材編・AI編のモデル契約書ver.2.2、2025年4月改訂。任意の契約モデル)

15. 大阪地方裁判所第21民事部|2025年2月13日判決、令和5年(ワ)第5749号(判決本文)

16. 知的財産高等裁判所第2部|2025年3月25日判決、令和5年(ネ)第10057号(判決本文)

17. 知的財産高等裁判所|前掲2025年3月25日判決の公式英訳参考資料(要旨を含む。日本語原文は資料16)

18. 東京地方裁判所第47民事部|2024年4月25日判決、令和5年(ワ)第70462号(判決本文)

19. 東京地方裁判所刑事第8部|2025年2月25日宣告、令和5年特(わ)第1278号(判決本文。末尾の書面日付は同年3月7日)

20. 大阪地方裁判所第26民事部|2024年10月31日判決、令和5年(ワ)第2681号・令和6年(ワ)第585号(本訴・反訴の判決本文)

21. 厚生労働省|裁判例を見てみよう:競業避止(裁判例の行政上の解説。更新型ページ)

22. e-Gov法令検索|民法(明治29年法律第89号。第90条等)

23. e-Gov法令検索|民事保全法(平成元年法律第91号。第23条等)

24. e-Gov法令検索|民事訴訟法(平成8年法律第109号。国際裁判管轄、証拠保全等)

25. e-Gov法令検索|労働契約法(平成19年法律第128号。現行日本語条文)

26. e-Gov法令検索|個人情報の保護に関する法律(平成15年法律第57号。現行日本語条文)

27. e-Gov法令検索|公益通報者保護法(平成16年法律第122号。施行日を区別して参照)

28. e-Gov法令検索|特許法(昭和34年法律第121号。現行日本語条文)

29. e-Gov法令検索|外国為替及び外国貿易法(昭和24年法律第228号。現行日本語条文)

30. e-Gov法令検索|法の適用に関する通則法(平成18年法律第78号。準拠法に関する一般規定)

免責事項

本稿の分析基準日及び最終改訂日は2026年10月26日、当初調査日は2026年10月9日である。不正競争防止法その他の関係法令、営業秘密管理指針(2025年3月改訂)、技術流出対策ガイダンス第2版(2026年4月公表)及び公表裁判例等を基礎とする一般的な法律情報であり、個別案件に関する法律意見又は訴訟・行政・刑事手続の結果を保証するものではない。行政指針、契約モデル及び裁判例は、それぞれ法令とは異なる位置付けを持つ。英訳資料は参考資料であり、法令解釈では日本語正文を優先する。

秘密管理性、不正取得・使用・開示、契約の効力、損害、刑事責任、国際裁判管轄及び準拠法は、対象情報、管理状況、行為態様、経過措置と適用時点によって異なる。本稿の裁判例紹介は、各判決の具体的な認定及び判断に限られる。情報開示、従業員調査、共同研究、M&A又は権利行使に際しては、最新の法令・公式資料及び個別事情を踏まえた専門的検討を要する。

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